プラザ KWA


 No. 15-010   「 ささゆり 」     赤堀 文恵 (会員No.1353 菊川市)

小鳥たちの賑やかな歌声で目覚め、外に出ると一面に広がる雲海、また東の方向には富士山を眺めることができた。火防の神として昔から信仰の厚い遠州秋葉山。私はここで両親と祖父母、三人の叔母と共に、生活していた。父は秋葉山の宮司をしており、母たちは茶店を営んでいた。この茶店は、富士山が素晴らしく見えた事から、富士見茶屋と名付けられ、参拝客たちの一休みの場として、いつも賑わっていた。山のふもとから三十丁あるので、地元の人は私の家のことを「三十丁」と言い、それで通用していた。
昭和18年3月18日、秋葉山の裏山から出火、三日三晩燃え続けたこの山火事は当時のニュースとしては大きなもので、その灰は隣接する掛川市にまで運ばれ、山は一週間くすぶり続けていた。この火事で、私の家と両隣の家、そして富士見茶屋も丸焼けとなった。この山火事で両隣の家族はふもとに移り住むため山を降りていった。私たち家族も一度は山を降り、借家に住んだが、祖父がどうしても山の上に住みたいと強く希望し、もう一度山に登った。そして、祖父は私たち家族が住むための家を建ててくれた。八畳と四畳の小さな家だったが、ここで暮らすことになった。これは私が二歳だった時の出来事で、まったく覚えのないことである。

ここでは山の自然を上手く活用し、家族で知恵を出し合って考えた生活だった。飲み水は五十分ほど山を降りた谷川まで汲みに行き、天秤棒で担いで山を登り家に帰った。それは決して無駄にできない大切な水だった。飲み水以外は、地面に大きな穴を掘り雨水を溜め、洗い物に使ったり、ふろ水として使ったりした。ふろは、形のよい石を並べた上にドラム缶をお置き、枯れた杉の葉や松葉をたきつけにし、枝や薪をくべて沸かした。
食事の時間になると、外にホウバの葉を取りにいき、その葉の上にご飯やおかずをのせてお皿にした。使用後は洗わず山に返し、次にまた新しい葉を取りに行った。箸は木の枝を折ってきて使った。上等な黒文字と思って使えば楽しいものである。夕食が終わる頃ドラム缶のふろがほどよく冷め、お月さまを見ながら入った。

 家を建ててくれた祖父は大変器用で、囲炉裏や戸棚など、何でも作ってくれた。ある日何かを作り始めた祖父の様子をじっと見ていた。家の裏に並んで立っている二本のさくらの木に登り、二股に分かれた枝と枝の間に丸太ん棒を渡した。私は木の上の祖父に大きな声で聞いてみた。
 「おじいちゃ~ん。なにつくっているのぉ~」、
 「いまにわかるよ~」
とニコニコして答えて、祖父はその丸太ん棒に太い綱を二本縛り、下に垂らし、平らな板を縛りつけた。私は
 「ブランコだ~」
とはしゃぎながら急いでブランコに乗った。
富士山に届きそうにブランコをこぐと、とても気持ち良く胸がすっとした。ブランコの上から
 「おじいちゃん、ありがとう」
と何度も言った。

 
また祖父は地元の猟友会に所属しており、鉄砲をもって猟に出かけることもあり、囲炉裏の回りには串刺しにされた、スズメやハトが焼かれていて、いつでも食べることができた。犬のタローと一緒に山を歩き、猪などを捕ってくると、その猪を軒下に吊るしておいた。多いときは三頭もあり、ちっと怖かった。もちろんこの猪は猪鍋となり、私たちの唯一のごちそうだった。

 小学校は山を下ってすぐの所にあった。入学したばかりの私は、毎朝学校が近付くと泣いていた。私にとって初めての集団生活であり、たくさんの友達や先生に慣れる事ができなかった。そのため誰かに何かちょっと聞かれても、すぐに涙がでてきてしまい、自分の思っていることが何も言えなかった。二年生になってから泣くのをやめたが、やはり泣き虫だった。

 私が小学六年の時に父が亡くなり、母は大きな精神的な苦労を秘めながらも、昼間は男衆と一緒に山仕事や炭焼きの手伝いをし、焼き上がった炭を三尺坊まで運ぶ仕事をしていた。炭俵一俵(四貫目)を運ぶと百五十円だった。谷間の細い道は一俵、広い道は二俵背負い、これを一日二往復するのだった。私も一俵ずつ運びお金を貯めた。又、夕食後は土間で炭俵を編んだ。茅を切って水で湿らせ半乾きになった頃、その縄で編んでいく仕事だった。母はこの俵を毎晩十枚編まないと床に入らなかった。一枚編むと十円だったが、働かなければお金がなかった。どんなに夜遅くなっても、朝四時に起き水汲みや、草取りをしてから朝食の支度にかかるのだった。私の見る母はいつも働いておりそんな苦労を少しも見せず我慢強い母だったと尊敬している。

 私の小使い稼ぎはもう一つあった。それは、冬になると秋葉山への参拝客が多く、タバコの吸い殻からの火事を予防するため、道の両端の草刈をする仕事だった。そこを校長先生が通りかかり恥ずかしくて山の中へ隠れてしまった。それを見ていた母は
 「何も恥ずかしい事ではないでしょ。」
と私を諭した。

 その頃、村部には麦蒔き休みや、茶摘み休みなど働く為の休みがたくさんあつたため、働くことに何の違和感はなく、母と一緒に働いた。家の手伝いや炭を運んで貯めたお金は自分の必要なものを買うというやり方をしており、母は決してそのお金を当てにする様なことはなく、すべて私のお小遣になった。


 私にとってどうしても忘れられない出来事がある。一生懸命貯めたお金で前々から欲しかった「から傘」を六百三十円で買う事ができた。うれしくて、広げたり・つぼめたりして雨の降る日を待っていた。心待ちにしていた雨の日、うきうきして学校に行った。後から歩いてきた隆男君が、
 「そんな傘をさして生意気だ。」
と言って、自分の傘で何回も叩き穴を空けてしまった。私は悔しくやっきりして、隆男君の上に馬乗りになり、両手で無茶苦茶に殴った。
 「新しいのを持ったことないから、悔しいだろう」
と言われた。隆男君が益々憎らしくなり一日中にらみつけていた。ボロボロになった傘をさし、泣きながら家に帰った。家に帰ってからもしばらく泣いていた。

 三十年ぶりの同窓会で隆男君に会った。
 「おれ、あの時、内山にやられたっけ!内山すごかったぞー。悪かったな、ごめんなー」
と言われ、二人で顔を見合わせ笑ってしまった。今となっては懐かしい思い出になっており、彼と会えることを待ち望んでいる。

 山の桜のつぼみも膨らみ、山にも春がやってきた。小学校の卒業式の前日、母は私の前に新品の上下お揃いのセーラー服を差し出して
 「明日はこれを着ていきなさい」
と言った。
 「えっ、本当?」
正直いって明日の服の事が気になっていた。まさか母がこのように支度をしていたなんて思わなかった。それより、どうやってお金を貯めたか、きっと無理をしたに違いないと思いながらもうれしくて、すぐ試着し家族の前で踊りながら見せびらかした。
セーラー服のお蔭で卒業式への足取りはいつもより軽く、山を駆け下りていった。式場では、父母席の前列に座っている母が、私のセーラー服姿を見て微笑んでいた。私も嬉しく隣の子に手がぶつかるほど胸をはっていた。

 私は三人姉弟の長女として生まれた。中学一年の春、妹は小学三年生だった。母は妹の幸せを願い静岡の遠い親戚に養女に出すことを決めていた。ある日、私が学校から帰ると妹の姿はなかった。母は何も言わず、私も何も聞くことができなかった。妹が秋葉山を去っていく姿を、私に見せたくなかったのは、私と妹への思いやりだったと思い、母を責めることはできなかった。

 長い間この事について、話し出すことがなかった母にこの日の事を聞いてみた。始めは思い出したくないと言ってが、しぶしぶと様子を語ってくれた。
その日、母は表書に家の住所を書いたハガキを十枚用意し、家を出る前、妹のランドセルに入れながら言った。
 「いい、家に帰りたくなったらこのハガキをポストに入れなさい。おかあちゃんがすぐ迎えに行くからね」
 母は山の下のバス停まで送って行った。妹は、静岡のご夫妻に引き渡されると、膝の上に乗せられしっかりとだき抱えられていた。妹は分かっていたのか、暴れる様子もなく、じっとしていた。母はバスが見えなくなるまで見送り、山を駆けあがった。そして、人家のないところで泣き崩れ涙が枯れるほど泣いた。どの位の時間が過ぎたか我に戻り家に帰ったという。

 二人がこんな話をしていたなんて、私はまったく知らなかった。最後にひと目あって、別れをしたかった。今、文章にしながら涙があふれ出ている。 
「のりちゃん、ごめんね。私も、のりちゃんのこといつも思っていたんだけど仕方がなかったのね」
里心がつくと困るからと向こう様に言われていたので、お互いに我慢をしていた長い年月だった。母は一日として妹のことを忘れられず、人に気づかれないよう一人で泣いていたのではないかと察した。

 妹はランドセルに入れられたハガキを使うことはなく母の手元には一枚も届かなかった。現在、理解あるご主人、三人の子供達にも恵まれ幸せな日々を過ごしている。母を囲んで食事をする時は、楽しい笑い声が母をほっとさせている。

 私の家から犬居中学校までは、山を下って片道六キロあり、一時間かかった。中学校へはカバンとしょい、籠で通学した。学校には誰よりも早く行きたかった。職員室や教室の机を拭いたり、花壇に水を蒔いたりしたかったからだ。これは自分の意思だった。一番に学校に着く為には、小学校の弟を歩かせると時間が倍かかってしまう。そこで弟を背負い駆け足をした。手には、さつまいもや柿と小田原ちょうちんを持った。十三丁の辺りにある穴の前で弟をおろし、おやつにする「さつまいも」や「柿」と、小田原ちょうちんをその穴に入れ、再び弟を背負い学校に向かった。

 小学生と中学生では、帰りの時間が違うので、別々に帰らなくてはならない。先に帰る弟は、おやつの穴に寄り、半分のおやつを出して食べながら家に帰っていく。これが毎日の日課だった。

 私は授業が終わってから、母から頼まれたお米、調味料、日用雑貨などの買い物を済ませ、山を上がる頃には薄暗くなっている。十三丁の穴の前でローソクに火を点け、足元を照らす。そして残りのおやつを食べる。右手に小田原ちょうちん、左手にカバン、背中にはしょい籠を背負い、とても重かった。山が深いので暗くなると、狐やたぬきなどに出会う事もしばしばあった。祖父は、「動物はびっくりすると襲いかかるから、遠くから大きな声で、歌を歌って歩きなさい。そうすれば動物たちは逃げていくから。」と、私に教えてくれた。私は英単語を言ったり、歌を歌ったりしながら歩いた。そのためか、特別恐い目には会わなかったが、常に緊張して歩いた。

 二十五丁の大きな杉の木の前まで来ると犬のタローが待っていてくれた。毎日毎日そこにすわっていてくれた。辺りはだんだん暗くなり、心細かったが、タローのお迎えで元気が出た。昔から、犬は人に死骸を見せないと聞いていたが、タローもいつどこへ行ったか姿を消した。秋葉山のどこかに眠っているだろう。

 犬居中学校は一クラス三十名で三クラスあった。やはりここで気になることはセーラー服のことだった。私のセーラー服は母が小学校の卒業式の時、用意してくれたものだった。それは二本線で、スカートのひだの数も少なかった。クラスの大半の女生徒は三本線のセーラー服と二十八本スカートを着ていた。私もそのセーラー服を着たいと思い、お小遣を貯めることにした。炭運びや草刈など今まで以上に頑張った。

 三年生の秋には修学旅行があるため、どうしても自分で作って着て行きたかった。洋服屋をしている親戚の叔母のところで、カシミヤを安く譲ってもらった。型紙は新聞紙の上に自分のセーラー服をお置き、青鉛筆で線を引いた。家庭にはミシンがないので、学校の先生にお願いして貸して頂いた。家で躾をしておき、朝早く登校し授業の前に家庭科の教室でミシンを踏んだ。授業の前のわずかの時間に、少しでも進みたいと焦れば焦るほど、足踏み式のミシンのベルトが外れたり、糸が抜けたりした。時には針が折れてしまって最悪だった。苦労したのは、ひだのスカートで、二十八本のひだを作るためにどのように割り出すかであった。満足のいくまで何回もやり直し完成するまで二ヶ月位かかつた。東京への修学旅行には着て行くことが出来て嬉しかった。中学生の私の作ったセーラー服は上出来で、自分ながらに感心し、自分で自分をほめていた。

 しよい籠を背負って登校するのは、もちろん私だけだった。帰りに買物をしなければならなかったので、仕方がなかつた。でも、私もカバンだけで学校に行きたいといつもおもっていた。

 中学校の卒業式は冷たい雨の日だった。学校に着くと受け持ちの黒川先生が待っていてくださった。黒川先生が
 「内山、今日の卒業式で表彰してもらえるから、承知して置きなさい」
と言われ何のことか分からず不安だったが、
 「はい」
と返事をした。卒業式は式次第に沿って進められ厳粛に行われて行った。司会の先生が言った。
 「善行賞表彰 内山文恵」
私は緊張していた。壇上の北村校長先生の前に進み、ていねいにお辞儀をした。
「善行賞表彰  内山文恵

 あなたは 遠距離通学をも困苦とせず
 よく 学業に励み 家事を助け
 その行為は 他の模範とするところであります。
 よって ここに表彰します

 昭和二十六年三月二十日
 周智郡犬居町立犬居中学校長  北村丑朗 」 
と読みあげ、
 「よく頑張りましたね」
と声をかけてくれた。
私はあふれ出る涙で何も見えずお辞儀も忘れ、母の所に走り、二人で抱き合い大声で泣いてしまった。会場から拍手が沸いた。嬉しかった。カバンだけで学校に行きたいなんて思ったことが、ちっと恥ずかしかった。

 中学校卒業後、高校に進学する人はクラスの三分の一くらいで紡績工場へ行く人も多かった。私はセーラー服ですっかり自身がついた事と、縫うことが好きだったので、できれば磐田の文化服装学園に通い、ミシンで洋服をたくさん作ってみたかった。家にはお金が無いことが分かっていたので、そんな無理なことは言えなかった。そこで、紳士服の仕立てをしている親戚の叔母のところにお世話になることにした。

 この時、初めて家族と離れて生活することになった。また長年住み慣れた山との別れでもあった。叔母は、優しくも厳しい人だった。洋服の仕立ての他に掃除、洗濯、炊事と礼儀作法まで教えてくれた。初めて頂いた三百円のお金でパンを買い、秋葉山の母に持って行った。特に母はパンが好きだったので、私が働くようになったら、おいしいパンを沢山食べさせたいと思い持っていった。しかし、母はもったいないと言って、なかなか食べてくれなかった。母は今の私の生活のことが、気になっていたようで、話をしているうちに安心したのか、パンをおいしそうに食べてくれた。

 お世話になった八年間で紳士服の仕立ても覚え、背広、オーバーコート、モーニングまで縫えるようになった。この後、コツコツとお金を貯めて、秋葉山の家族の為に、白黒テレビを買った。山の上なのでとてもきれいに映り、やっと世の中の情報が入るようになったと家族みんなが喜んでくれた。特に祖父が喜んでくれたので私も嬉しかった。
 
 昭和三十八年四月、二十三歳の時小笠町に嫁いだ。夫と夫の両親との四人家族で、夫はやさしい人だった。二人の子供にも恵まれ幸せに暮らした。子育ても済み、夫の両親の老後の事を考え、介護の仕事を覚えようと、特別擁護老人ホームに勤めた。義母は長く病むことなく他界したが、義父は痴呆が始まり、枕カバー荷物をつめて徘徊するようになった。私は一ヶ月の休暇願いを出し、義父の面倒をみることにした。急に容態が悪くなり三日間床に伏せただけだった。介護をするための休みが用をなさず申訳なかったが、最後をしっかり看取ることが出来たことが何よりの慰めだった。

 しばらくして仕事に復帰したが、目的は義父を見るためだったので、十五年間勤めた特別養護老人ホームを退職した。老人介護のことはマスターしたので、次に働くのなら、障害者の施設にしたいと思っていた。たまたま空きがあり務め始めたが、自分にはどうも合わない苦痛の日々で続かなかった。再び特別養護老人ホームに勤めることになった。自分はやはり老人が好きだった。この施設で九年間勤め定年を迎えた。

 この施設でSさんとの出会いがあった。Sさんは、施設の中でお年寄りと明るく振る舞い温かい思いやりで、利用者から慕われていた。レクレーションにも誘っていただき仕事以外にも行動を共にしてくれた。私の働きぶりもいつも見ていてくれ、一緒に悩んだ事もあつた。施設では走り回っているSさんが二十年以上もお茶を続けていることを知った。「お茶の稽古をしない?」と誘ってくださったこと事で発覚したのですが、施設の中では誰も知っている人はなかった。なのに私を誘ってくれたので、有頂天になった。ずっと以前から茶道を習いたかったが機会がなかったので、嬉しく仕事の合間にお稽古に通った。家でも自分が満足いくまで時を忘れて手を動かした。元気な間はずっと続けたいと思っている。

 私の健康には、ジョキングがある。二人の子供が小学生の時、子供会の早起き会にも私も参加したのがきっかけである。以前は子供達も一緒に走っていたが、中学生になり部活動で続けられなくなり、今は一人で走っている。二十五年以上続けてきたため、風邪もひかず、肩こりもなく健康で還暦を迎えたことをうれしく思っている。

 最近の新聞やテレビニュースで親子の悲しい争い、幼い子供への虐待、親が親になりきれない惨事、川の流れはかわっても、水はいつも水であると思い、でもその水に濁りが出た時は一刻も早く見つけ対応するのが、親の責任であり子供の幸せに連なる根元であると思う。

 私達も決して恵まれた環境ではなかったが、何事にも感謝の念で接する事を身をもって教えてくれた母は、誰にも自慢出来る母である。辛い事も苦しい事もじっと我慢し明るい笑顔を絶やさず、私達を育ててくれた母に感謝の気持ちでいっぱいだ。

五月になると母のようなやさしい「ささゆり」の花が咲く。私の大好きな花である。秋葉山の山の上から
 「お母さん。ありがとう」
と大きな声で叫びたい。



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『ささゆり』を再掲載しました。  ・・・・会長 室井政吉・・・・

丁度この時期、“ささゆり”が咲くころに成ると毎年思い出す忘れられない記事が有ります。
今から6~7年前の会報に掲載されたものなので、その後に入会された方々はご存じないと思い、執筆者の了解を頂き、会報に再度掲載することに致しました。
皆様の感想などをお寄せ頂ければ有難いと存じます。(2016/ 7/8月号)