プラザ KWA


 No. 15-020   「ミヤマハナシノブ」    野口義之 (会員No. 825 焼津市)

南アルプスの北岳に登るべく私は八月の広河原に居る。以前北岳には登ってはいるものの何年振りだろうか、指折り数えてみる。ゆうに四十年以上…、時の流れにため息が出た。槍や穂高は何度も登っているのだが、北岳はとんとご無沙汰であった。何度も二度目に挑戦しているのだが仕事の都合であったり、塩見岳まで行きながら、仲間の体調不良で下山したりと二度目に縁がなかったのである。

今回は妻も一緒、一昨年は針ノ木、昨年は白馬そして満を持しての北岳であった。コースは沢沿いの大樺沢を歩く。天候は良いが、暑いので、二俣までの道が遠く長い。妻と二人だが、思えばよくここまで来たものだと感慨深い。医者には「車椅子になります」とまで言われたのが夢のようである。病気のハンデがあり、いろいろ不都合なことも多々あるが、妻のことで最も以外で嬉しかったのは彼女が病気のハンデを苦にしていない事であった。「成ってしまったものは仕方がない」とサバサバしていた。私はずっと妻は私より心配性だと思っていたが、事実は私の方がクヨクヨしていて妻が楽天的だったのだ。長年連れ添った夫婦にしてこの有様である。つくづく人間とは解らないものだ。

昼ごろ二俣到着、沢沿い歩きから山道に分け入る。山歩きの本番はこれからでいきなり急登から始まる。ハァハァと息を切らしながらひたすら登る。しかしご褒美もある。それは頬を撫でる風であったり、美しい花々であったりする。マルバダケブキの群落が忽然と現れる。「おーっ!」思わず声を上げる。こころに沁みる入る喜び、これだから山は止められない。小太郎尾根分岐を過ぎたあたりから雨が降り出した。素早く傘を出す、レインウェアはまだ必要ない。まもなく肩の小屋が見えてきた、ホッとする間もなく雷がドン!と鳴る。肝を冷やしながら小屋に飛び込んだ。ヤレヤレ…。しかし夕暮れには素晴らしい夕陽が顔を出し、晴れたり降ったりの気忙しい山の一日が終わる。

さて翌日は快晴。早々に小屋を発ち一時間後には北岳山頂にいた。絶景の山頂からはこれから行く堂々とした間ノ岳の姿が望める。日本で奥穂高と並び三番目に高いが本当は奥穂高より五十センチばかり低いはずで国土地理院がセンチ以下を切り捨てた為に同列の第三位に格上げされたのだ。これは納得しかねる。以前に間ノ岳に登った時は簡単に着いた記憶があるが、今回は遠い道のりに感じる。四十年前の体力とは違うので当然なのだが…。頂上だと思ったのがニセモノで今度こそとまた騙される。それを何度も繰り返しやっとピークに立つ。「やったね。これで日本第五位まで登ったよ!」と妻に声をかける。この頃から天候がくずれ小雨交じりになり、再び北岳山荘へ。金曜日であるのに廊下にまで人が溢れ出す鮨詰め状態の一夜が明ける。今日は下山に危険個所が多いので慎重に降りなければと自分自身に言い聞かす。北岳山荘からトラバースしガレ場の上部に出る。滑りやすそうな岩がゴロゴロ積み重なる悪路で、これからが今回登山の最難関。と言うのも妻が同行しているからである。歩こう会の方々は彼女がいつもポールを突いて歩いているのを御存知かも知れない。転びやすいから転倒防止の為にそうしている。一緒に街歩きをしていても突然倒れ両手を着く事が度々あり注意が必要なのだ。以前ならば何の問題も無かったガレ場が危険な場所に変わる、まず私が先行する。転んだ時にすぐ止める手立てを念頭に置いて進む。転んでもすぐに止めれば問題はない。神経の九割は妻の動きに集中、残りが自分の足元でのんびり景色を眺める余裕はない。まず無事ガレ場を通過…。次はハシゴが連続する。これも要注意。「ハシゴは必ず下向きに降りる事。下向き。解った!」と念を押す。お尻を下にして降りると滑って落下し易いからだ。下向きなら滑らない。万一滑ってもハシゴにひっかかるし、下側に私がいるので受け止める事も出来る。そしてハシゴが連続する八本歯を通過…。難所を過ぎ八本歯のコルに着き一息ついた。

そして苦労して登った山からの贈り物が待っていた。眼前には北岳バットレスが圧倒的な迫力で姿を現す。正に山の王者北岳の貫録を示す光景である。贈り物がもう一つ。先程から薄紫色の美しい花がポツリポツリと咲いている。高さは五十センチ程だろうか、一本に十ほどの花を散房状につけている。

花の名は解らないが、清楚な姿、形が綺麗で一目見て好きになった。後に花の名がミヤマハナシノブ(深山花忍)で北岳を代表する花だと知った。そろそろ帰りのバスの時間も気にかかる頃で少しピツチを上げれば都合の良いバスに乗れるとの計算があり妻をやや急がせた。これが大失敗に繋がる。

彼女はすでに疲れていたのだが、これに気が付かなかった。私が少し後を振り向いた直後、妻は躓いて空中をぶっ飛んだ。凡そ五十センチくらいの段差だが前方に岩が有り衝突した。突然の事態で対応出来ない。自分のミスに気付いたが、すでに手遅れ…。大怪我を覚悟したが、妻は咄嗟に手で防御したらしい。幸運なことにすぐ後ろを歩いていた山岳レンジャーが直ちに診察してくれた。怪我の程度、目の瞳孔などを手際よく調べて「怪我は軽いです。ただ疲れているので四十分以上休憩を取ってから出発するように」と指導を受ける。妻は「ごめんね…」と言ったが謝るのは私で、完全な判断ミスであった。事故の場所は二俣の少し手前で、その辺りにもミヤマハナシノブが咲き誇っていて心を癒してくれた。

今後はミヤマハナシノブを見る度に妻が宙を舞った姿を思い出すに違いない。その後木陰で小一時間休憩、しばらく歩いて沢の流れが広くなった所でまた休憩。「怪我大丈夫かな、痛い?」「痛くないよ」との返事。「うん…」と私。清流がサラサラと涼やかな音を奏でる…。ゴールの広河原はもうすぐだ。

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