プラザ KWA


 No. 15- 「お楽しみハイク-2/22-柳生の里見聞記」   伏見勝弘 幹事
 
・ 柳生の里は観光客もおらず、時折小雨の振る暖かな一日でした。

生垣に囲われた古い様式の日本家屋が点在するゆるやかな山すその古道に、地味な史跡をたどる東海道自然歩道は、紅梅の蕾が二つ三つわずかに割れているだけで一面枯れ草色でした。申し訳なそうに淡い色の山茶花が数個揺れているだけの何も無い山里でした。 真に何も無いのです、看板も、宣伝の旗も、電柱は少しだけ、秘伝書も、刀も、もちろん柳生饅頭も、十兵煎餅も、何も無いのです。これこそ日本の原風景だと思いました。 世界遺産になった富士山周辺のケバケバシイ観光地に大いなる疑問を感じました。 写真:柳生陣屋跡

・ 器量良し

 柳生宗矩が妻となる女性と出会った井戸で、宗矩が「波の数は幾つか」と尋ねると「殿の馬は何歩あるきましたか」と切り返したそうです。この機知に娘の器量の良さを感じとり、後に妻としたそうです。

 この日は往路の車中で、新村氏が小泉八雲の焼津ゆかりの小品を読み聞かせてくれました。さらに松村氏が加わり「とんち問答や小話」で“頭の体操と顔面ストレッチ”をさせられました。お二方とも長身の美女ですが「器量良し」がふさわしいのかな。追記:久保田氏も難しい大人の小話をされました。

・ 歴史こぼれ話

 柳生家の家老屋敷の切符売り場の立派な紳士は観光協会の会長様でした。帰り際に、にわか講演が始まりました。聞き漏らした方もおりますので一筆したためました。

 柳生家は将軍の剣道指南番ですから、現代で言うところの参謀長にあたります。幕末も最後の1867年江戸に居た殿(柳生俊益=としまつ)は国許に「京都に出兵し薩長に対峙せよ」と命じました。しかし柳生藩は小藩で当時武士らしい武士は60人程しかおらず国家老は出兵をしませんでした。それを聞いた江戸の殿は激怒し首謀者2名に対し刺客を送りました。船を使い国元に向った為天候の関係で遅れ、そのうち「大政奉還」(1867年10月)が行われてしまいました。当時の刺客は血のりを拭くための紫の布を持っていたためすぐ判明し、捕らえられて個別に説得されました。刺客の失敗を知った殿は自ら国元に入り、出兵すると言いはるので、家老はそれなら殿に現地を見てもらうと言う事にしました。鳥羽伏見の合戦の直後(1868年1月)で宇治川に着くとあたりは錦の御旗だけでした。ところで、官軍は幕府の参謀長の柳生が自ら官軍を迎えに来てくれたと喜びました。

 明治になり最後まで官軍と戦った会津藩士の過酷な運命に対し、柳生藩士にはお咎めなしで殿は知藩事に任じられました。最後に講師いわく「歴史は結果だけでなくその真実を学んで欲しい」との事でした。歴史も人生も、棚から牡丹餅や、怪我の功名があるのだと思いました。

 剣豪小説で有名な柳生の里は殺気など遠い昔で、穏やかで、優しさにあふれていました。皆さんがこの文を読む頃には一面若葉に覆われた花咲く山里でしょう。

・ お土産

 皆さん何を買われましたか、断然「赤福」が多いと見受けました。私は「赤福」-1個、「貝のふくら煮」-3個買いました、この貝は炊き込みご飯にすると大層美味です。三重県近くのSAにあります。昨年伊勢の帰りに土産の数が不足の為発作的に買ったのですが・・・土産物に旨いものもありました。

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